発達障害「友達の話がわからない」LD。

友人の、そのまた友人の娘ちゃんの話です。
家庭でも小学校でも「これといった問題もない、ごく普通の子」だったのですが、
小学校高学年になっていたある日、お母さんに言ったのだそうです。
「友達の喋っていることが、全然わからへん時があるねん」
驚いたお母さんが詳しく話を聞いてみると、
「話し声はちゃんと聞こえている。でも、内容がよくわからない」とのこと。
いろいろ確認したうえで「これは・・・」と思ったお母さんが病院に連れて行き、
キチンと検査をしたところ、娘ちゃんは発達障害だったそうです。

こういう事例をアタシの心理学の先生は、「耳が悪いんやね」と言います。
あくまでも、わかりやすく説明するための便宜上の表現ですが。
音は聞えているけれど、脳で正しく聴き取り・理解・把握できないというような
意味で使っておられるのだと思います、大雑把に言うと。

家庭では、我が子を「ちょっとものわかりの悪い子だな」とは思っても、
その分わかりやすく丁寧に、または簡単な言葉でわかるまで説明してやれば
理解していたように思えたので、ご家族も気づかなかったようです。
でも学校では、そこまで配慮してくれるはずもなく。
飛躍的にボキャブラリーが豊富になった小学校高学年女子達は、省略語を連発して
時間も空間もあっちこっちに飛ぶような話を機関銃のように喋っていたのでしょう。
そうなるともう、娘ちゃんには「喋っていることがわからない」となるようで。

それでもこの場合は娘ちゃんが自ら申告したから診断もされ、今後は的確な支援も
期待できるのですが、自分でも「こういうものなのかな」と思い込んでしまったまま、
気づかない、気づかれないままに成人し、
話していることがわからない、自分も上手に話せないために人間関係の形成が
難しくて孤立してしまったり、
学習面で大きくつまづいてしまったり、
社会に出てから極端なカタチで仕事ができない、職場になじめないという事態に陥ることも
珍しくないのだそうです。

こういう話を聞くにつけ、やはり「気づき」の大切さを痛感します。
公表するかどうかとかはその後の問題であって、まず気づき、受け入れないことには
将来の自立、自律に向けての準備が始まらないように思います。

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